病院に戻ると、手術はもう終わったらしく、その場にいた看護婦の案内で集中治療室へと向かった。着いてみると、そこには祥子の両親や衛、祥子の友人たちが皆同様に沈痛の面持ちで座っていた。
「竜彦・・・お前何処行ってた」
衛が立ち上がって、半ば責めるような、それでいて力無い口調で竜彦に言うものの、
「・・・」
竜 彦は何も言わない。いや、何も言えなかった。しかし、彼の憔悴しきった表情に気付くと、『もういい』とだけ言って再び長椅子に座り込んだ。
「祥子は・・・?」
竜彦は、声を発しながら、自分の声のしゃがれ具合に内心驚いていた。声が枯れるくらいに泣いていたのかと、改めて実感した。
「手術は終わったけど、お医者さんが今夜持つかどうかだって・・・」
祥子の友人の一人がそう答えると、彼女はそのまま泣き出してしまう。隣の少女がそっと彼女の肩に手を置く。その少女も涙を堪えることが出来ていなかった。
集中治療室のドアを見てみると、そこには無造作に『面会謝絶』と書かれた白くて大きな札が掛けられているだけだった。
誰しも無言。ただ、嗚咽のみが廊下に響き渡っていた。
時間の感覚はとうに消え失せていた。祥子の友人たちは、祥子のことを気にしつつも、やはりそれぞれ事情があり、一人二人と帰って行き、残っていたのは竜彦と衛、そして祥子の両親だけになっていた。それでも、四人は何も語らず、ただいたずらに時は過ぎていった。
突如、集中治療室のドアが開いて、白衣の男が出てくる。主治医らしい。祥子の両親は彼に連れられて別室に通される。親族だけへの内々の話らしく、竜彦と衛はその場に置いて行かれた。
三人の姿が消えると、衛は静かに立って竜彦に言った。
「・・・俺、そろそろ行くわ。バンドの奴らにも謝っとかないと」
そう言えば、今日がライブの日であったことに今更ながら思い出した。
「そうか。済まなかった・・・な。俺も、行こうか?」
申し訳なさそうに言う竜彦に、衛は静かに首を横に振る。
「いや、いいさ。俺も行かなかったしな・・・。お前は、傍に・・・いてやれよ」
「ああ・・・」
竜彦は俯きながら答えた。だから、立ち去っていく衛の表情に暗い翳が走ったのを、竜彦には分からなかった。
衛はとぼとぼと病室の廊下を歩いていく。
どうしてだか、涙は出なかった。竜彦をはじめ、周りの連中が取り乱していたから冷静でいられたのだろうかとも考えたのだが、それも違う気がする。悲しいという感情は勿論あっても、何かもう一つの嫌な感情が頭を擡げていた。竜彦が病院に再び姿を見せたとき、それが少しハッキリした。それは、言ってしまえば――嫉妬だった。
中学時代、竜彦から紹介されて祥子に出会ったとき、ただの大人しい女の子としか考えてはいなかったが、気が付くと彼女に惹かれていく自分がいた。だが、彼女への想いが強くなればなる程に、彼女の竜彦への想いにも、気付いていくのだった。それは余りにも苦しく、それ故に彼は自ら手を引いた。想いを伝えることも無く。高校に入って告白してきた高橋優希と付き合い始めたときに、完全に吹っ切ったつもりになっていたのだが――
衛は、自分の未練たらしさに苦笑を漏らさずにはいられなかった。
その時だ。
衛は一瞬、自分の横を微かだが風が通り抜けるのを感じた。
生暖かいそれは、まるで人が横を通り過ぎた感覚を思い起こさせた。
衛は何となく気になって、後ろを振り返ってみる。
そこに、人の気配は感じられなかった。
あれから暫く経ったが、まだ祥子の両親は戻って来ない。話が長引いていると言うことは、もしかすると――
竜彦は頭を何度も横に振りかぶり、その思考を打ち消そうとした。絶望するな。まだ祥子は生きている。必ず起きて、もう一度笑顔を見せてくれる。けれど、残酷な想像は、打ち消しても打ち消してもゾンビか何かのように湧き上がってくる。その度に竜彦は頭を抱える。薄暗い廊下の真ん中で一人きり。だから、集中治療室の異常に気付くのに少し時間がかかった。
「何だよ・・・これ」
集中治療室から何かが漏れていた。
青い光だ。淡い、それでいて見る者を引き込む神秘的な光。
しかも、漏れてくる光は次第にその量を増し、竜彦の顔を明るく照らし出した。
「祥子・・・?」
何か異常があったのか――不安を覚えた竜彦は、ドアノブを回す。すると、それは彼の予想に反して容易に回った。
竜彦は少し躊躇ったが、意を決してドアを開け放つ。
竜彦はその光景を見て、我が目を疑った。
目の前に立っていたのは他でもない、今ベッドで眠っているはずの祥子だった。
彼女の命を繋ぐ筈の生命維持装置の全てが外され、警告音が鳴り響いている。
しかし、竜彦はそれに気に留めなかった。
全身に青い光を纏って目の前に立っている祥子の異様な美しさに目を奪われていた。
「祥子・・・」
戸惑いと喜びを名を呼ぶ声に込めながら、竜彦は祥子に触れようと近づこうとする。
だが、
「・・・」
祥子は何も言わずにただ竜彦を睨みつける。
祥子の眼は、怒りと嫌悪に彩られていた。
今まで見たことも無い彼女の冷たい貌に、竜彦は立ちすくむ。
「・・・さち・・・こ?」
竜彦はそう言ったきり、何も言えなくなった。
沈黙が二人を包む。余りにも冷たい沈黙。二人の間にはただ、生命維持装置の無機質な警報音だけが響き渡る。
永遠とも思われる位の沈黙の果てに、祥子は漸く口を開く。
だが、彼女の放った言葉は、竜彦には到底信じられないものだった。
「ウチは・・・あなたを赦さない」
「な、・・・何を言って――」
鋭く突き刺すような彼女の言葉。とても同じ声が喋っているように思えなかった。
「あなたは、やってはいけん事をした。・・・ウチらの思いを、粉々にしたんじゃ」
祥子は静かな、それでいてきつい口調で竜彦を詰りながら、彼のほうへと近づいてくる。
竜彦を怒りと憎しみと怨みの感情を湛えた眼で睨みつけながら。
「祥子・・・言っている意味が分からないよ・・・」
なおも近づいてくる祥子に、何か空恐ろしいものを感じ、竜彦は本能で後ずさった。
「どぼけてるの?」
「とぼけてるって、だから何だよッ!!」
状況に苛立って、竜彦はまた声を荒らげる。
祥子は怒り怒りに震えているように、見えた。
「・・・そんなに分からんのじゃったら、教えてあげる。さっき、あなたは滅茶苦茶にしたじゃろ?うちらにとって大切なものを」
「!!」
竜彦は、その時に至って、意識的に意識から消し去った己の罪を強制的に呼び起こさせられた。しかし、それを何故祥子が・・・
「あれは・・・うちらの為に造られたもの。死んでいったうちらがこの世界にいたことの証。それを傷つけたのは、うちらを傷つけたことと同じ」
竜彦は祥子の物言いに違和感を覚え始めた。『うちらのため』?『死んでいったうちら』?そもそも、祥子はこんなあからさまに広島弁を喋っていたか――
だが、そう思考を巡らすのも束の間。
「うちは、あなたを赦さない。・・・だから、あなたを呪う」
いよいよ近づいてくる祥子。その迫力に気押され、竜彦は動くことが出来ない。
そして――
竜彦の唇に、柔らかな感触が重なる。
突然のことに戸惑う竜彦。だが、途端に頭の中に光が走る感覚を感じ、そのまま意識が消えていく。薄れゆく意識の中、竜彦は、祥子の唇が死んだように冷たいと、感じていた・・・